「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展-世界は変わったのかな……
国立国際美術館に「マルセル・デュシャンと20世紀美術」展を観に行った。
国立国際美術館はもともと我が家から自転車でも行ける距離にあったんだけど、一般的には交通アクセスがとてーも悪いのと、大阪万博のときにできた建物が老朽化したため、大阪中の島に移転した。
旧国立国際美術館が最後の日は人でごった返した。ぼくも行ったのだけれど、家に帰ってびっくり。ある新聞のウェブ版の「国立国際美術館の最後を惜しんで写真を撮る人」の画像が載っていたのだが、……「おれやんか、これ……」。
いや、それはいい。
新国立国際美術館は、大阪の都心・中の島にあり、地上にはオブジェのような屋根だけが見え、美術館自体はすべて地下、というのもオシャレだ。ただ、都心ではあっても、どの駅からもビミョーに遠く、JR大阪駅からビミョーな距離をバスで行く。
その第1号の展覧会である。
今回のデュシャン展は3部構成。デュシャンの作品、デュシャンの影響下の欧米の作品、そしてデュシャンの影響下の日本の作品。
デュシャンの作品は、「階段を降りる裸体No.2」「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」「泉」「遺作」(「(1)水の落下(2)照明用ガス が与えられたとせよ(暗闇のなかで)」)など代表作がきちんとそろい、デュシャンの全貌が見渡せる。デュシャンの大きな展覧会は、20年ぶりらしい。
■「階段を降りる裸体No.2」の楕円の点線がアートを変えた
「階段を降りる裸体No.2」は、キュビズムの手法に「運動」を加えて、階段を下りる人間を描いている。
簡単に言ってしまえば、キュビズムのちょっとした進化形だ……。
……「えっ」と思った。運動を表すために、楕円の点線が、機械の説明書みたいに描かれている。
ぼくたちは後のデュシャンを知っている。だから、これくらいのことは何とも思わない。
でも、この小さな楕円の点線は革命的なのだと思う。キュビズムは、対象物を解体し、初めて対象物の単純な再現ではない絵を描いた。でも、実際に存在しない楕円の点線は描かなかった。若きデュシャンは、この楕円の点線を描いたとき、一歩踏み出したのだ。
キュビズムは、カンバスという平面に立体を描くために、対象を解体した。デュシャンは、運動を描こうとするとき、ついに、実際には存在しない楕円の点線を描いた。もう、彼は、カンバスという平面を離れなければならないだろう。
キュビズムは、対象を単に「突き放された対象」ではなく「画家が主体的に関わる対象」として描いた。しかし、それは、まだカンバスの中だ。でも、デュシャンは、対象と主体的に関わるために、つまり、同じ世界に存在するものどうしとして関わるために、もうカンバスは離れなければならないのだ。
■「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」が、世界を作る
そう、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」は、もうカンバスではない。
ガラスという支持体に、「運動」が表現される。しかも、その「運動」は、もはや対象の再現(デュシャンの言う「網膜的」なもの)ではない。「独身者」の性的欲求が、気化し、「花嫁」を裸にする、云々、という「思考の運動」である。
それは、もはや「描かれる対象」ではない。「思考の運動」が、ぼくたちと同じ位相でこの世界に「存在」している。
それまでの絵画は、「世界を解釈すること」だ。「世界を解釈した結果を網膜に再現するもの」だ。しかし、デュシャンは、「世界に存在するものを作る」のである。
■便器「泉」が世界を変える
次に、デュシャンが行うのは、「世界にすでに存在するものと主体的に関わり、世界を変えてしまうこと」だ。
そう、あの「泉」である。
既製の男性用便器に、「R.MUTT」(デュシャンのこのとき用の偽名)と署名して、はい「泉」です、というあれだ。
デュシャンが、便器を「泉」と名付け、展覧会場に持ち込む(結局、拒否されるのだけれど)ことにより、便器は小便をする対象ではなくなり、いや、「便器は小便をするもの」ということになっている「世界」自体が変えられてしまうのだ。
ゴッホがどれだけ迫力のある絵を描いても、それは、世界を解釈しているだけだ。しかし、デュシャンは、「便器は小便するもの」という世界を変える。
マルクスも言っている。「重要なのは、世界を解釈することではなく、変革することなのだ」と。
(……などと、なにやら哲学的なことを書いていても「便器」とか「小便」とか書くごとに力が抜ける……。まぁ、それもデュシャンなんだろう……。)
■「遺作」(「(1)水の落下(2)照明用ガス が与えられたとせよ(暗闇のなかで)」)の彼方
でも、それは、もう表現の極北だ。それ以上行くところはない。
「白の上の白」を描いたマレヴィッチは、その後、具象的な絵画に戻る。
デュシャンはといえば、フランスの代表に選ばれるほどチェスに熱中し、アートの世界から退いたように見える。
しかし、彼は、実は、「遺作」(「(1)水の落下(2)照明用ガス が与えられたとせよ(暗闇のなかで)」)を作っていた。
のぞき穴から観ると、その向こうには異次元のような世界が広がる。
局部を露出した女性の裸体が横たわり、顔は見えない。片手にランプを持っている。背景は、非現実的な風景が広がる。
これは、もう、何と言ったらいいのだろう……。
■日々、変わりながらも、結局何も変わらない世界
ところで、今回の展覧会の第2部・第3部は、デュシャンにインスパイアされた作品が展示されている。最初は、「余計や」と思ったけれど、これが実に「現代美術」のそうそうたる面々なのだ。
極言してしまえば、彼らはみなデュシャンの土俵で相撲を取っているのだ。それが、よくわかる。
ぼくは、現代美術の展覧会やギャラリーに行くたびに憂鬱になる。
すべての価値観から自由なはずの「現代美術」が、どうしてこうも「似たり寄ったり」なのか? いや、もちろん、その中にさまざまな成果があることを認めつつ、結局、「泉」の拡大再生産をやっているだけのように見えるのだ。
最近、やっと、この隘路から抜け出す兆候があるのは(しかも、日本初のアートで)、とてもうれしい。
実は、ぼくは、美術展に行くと、お客さんの様子などもよく観察する。
普通は、「代表作」の回りは人だかり。ぼくは、人垣の後ろから眺めつつ、徐々に作品に接近してゆく。
ところが、この「泉」の前は、みんなほぼスッと通り抜ける。
いや、そうだろう。なにせそこにあるのは、ただ署名されただけの既製の便器なわけだし、だから、画集などの写真で見てるのと別に変わりはない。身を乗り出して、細部をにらんで「うーん」なんてこともない。
単なる署名されただけの既製の便器なのだ。新たな感動もあるわけがない。
本当は、そこで世界は変わったはずなのだ。今もそこで変えられ続けているはずなのだ。
しかし、人々は、当たり前のように、国立国際美術館という真新しい美術館の一室に置かれた便器の前を、何事もないかのように次々と通り過ぎていく。
いったい、ぼくたちは、今、どんな世界に棲んでいるのだろう。
言わずもがな、だけど、言う。
デュシャンは、世界を変えたが、ぼくたちは、「日々、変わりながらも、結局何も変わらない世界」に棲んでいるのだ。

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